20220816

書店で本を眺めてたんですけど、窪美澄さんの書籍に巻いてある帯がだいたい「祝・直木賞受賞」で(おいお〜い)と思いました。ちなみに受賞作の帯は「直木賞受賞作」でした。ぶっちゃけ全部直木賞を受賞したようにしか見えない。せめて「直木賞受賞作家のなんやかんや(作品の説明)」とか書けばいいのに〜とか思った。

そう見えた方が売れるだろうから、という気持ちもよく分かります。売れないよりは売れた方がいいし。でもこういう、なんか言葉を選ばずに言えばだましうちみたいな売り方っていつからあるんだろうか〜と思ったりした。

あと「直木賞受賞」で帯埋められるならキャッチコピー考えなくてよくて楽だろうなという身も蓋もないことを思いました。

 

本を買うにあたって、みんなが同じだけお金を使えるとしても、作品がありすぎたら選べないし、選ぶ基準がこういう箔付け(もちろん作品の質出来云々もありますが、販売の点で見たら賞って箔だよね)やランキングみたいな数字、口コミ(最近だとTikTokで話題!とかそういうやつ)に集中するのは当たり前な気もする。とはいえ業界全体が低迷・衰退しない限りは作品が減ることはたぶんあり得ないので、この傾向が変わることはそうそうないだろうし変わる想像もできない。すると外部からの取り決めでもない限り売り方は変わらんのだろうなと思います。

他の売り方で想像しやすいものとして、電子書籍オンリーみたいなのもあるけど、でもあれ、売れたら結局紙で出しがちだよね、という。

(話はそれるけど、電子は基本欲しい人にしか届かない(自分で調べるか、広告にでも出ない限り/そして本以外の無数の広告からその本の広告に出会わない限り買えない)とも思うので、本屋で目にして買う、と言うのはバカにできんのだろうなと思う。)(しかしそこで目にしたときの判断基準は以下ループ)

 

健全な商売、という観念自体がそもそも矛盾しているのかもしれない。売り方に限らず、二匹目のドジョウを狙ったもので世の中溢れてるし、実際まあまあ売れるし、ドジョウいいや〜んと思ってるところにいきなりゴリラ出されるより「うちのドジョウは色違いです」って言われて新しいもの差し出される方がこっちも安心じゃないですか(謎すぎる喩え)。「ドジョウがいたとこにゴリラもいるかもしれんわ〜!ゴリラ見たいわ〜!」みたいな人間もいるかもしれないけど。

 

つまらない喩えで台無しにしてしまいましたが、市場においてはモノを売ったら買ってもらうことが正しい状況だと思うので、売るために手を尽くすのがある意味健康的だと思うんですが、それでもあのだましうちみたいな帯コピーには(おいお〜い)と思ってしまうのでありました。